映画『アベンジャーズ/エンドゲーム』感想、MARVELが好きな程に好きになる

ryu’sへようこそ…オーナーのryuです。

『アベンジャーズ/インフィニティ・ウォー』の衝撃から1年が経ち、待ちに待ったアベンジャーズ最新作『アベンジャーズ/エンドゲーム』が公開されました。本当に待ちに待った。公開初日に字幕で、2日後に吹き替えで見ました。

率直に言います。『エンドゲーム』を観たことで、MCU作品を全て買い揃えようと決心しました。この映画はMARVELが好きであればある程好きになる好きになる作品であり、このようなシリーズをリアルタイムで体験できたことに感謝するばかりです。

ネタバレを避けるために多くは語りませんが、「失う覚悟」と「二面性・多面性」をテーマにした素晴らしいMCU映画でした。

見る順番など些細なことを気にする前に、まず見てほしい。映画館で体験してほしい。そんな映画です。

以下、ネタバレ注意

『アベンジャーズ/エンドゲーム』はMCUの覚悟の作品だ

MCUの歴史は『アイアンマン1』から始まりました。主人公のトニー・スタークが「私はアイアンマンだ」と世間に発表したことから始まったヒーローの物語。その歴史を遡ると

フェイズ1

フェイズ2

フェイズ3

今作が22作品目となることが分かります。長い歴史の中で積み上げられたものは計り知れません。絆、ファン、期待、感情…。下の動画からも、作り手の気持ちの大きさが伝わります。

それもあってか、今作では随所にセルフオマージュがありました。キャプテンのエレベーターのシーン、スタークタワーの窓から飛び降りつつスーツを着るアイアンマン、ムジョルニアを持ち上げるキャプテン…ここに書いていないこともたくさんあります。全作品を見直したくなりますね。

ちなみに『エイジ・オブ・ウルトロン』では持ち上げられなかったムジョルニアを今作で持ち上げることができたのは、バッキーがトニーの両親を殺害したことを隠していたからだと思います。致命的な隠し事はふさわしくないと判断されるのですね。

だからこそ「トニー・スタークの死」と「キャプテン・アメリカの引退」が大きな意味を持つのです。

トニー・スタークとキャプテン・アメリカ

彼らは初期から常に対照的な存在として描かれていました。

トニー:後天的なヒーロー。自らの知識を用いて力を得て、ヒーローになろうとしてなった。自己犠牲の精神は『アベンジャーズ』でミサイルを宇宙空間に捨てる時以降所有。自由を失ってでも策を講じる。

キャプテン:先天的なヒーロー。実験で力と盾を得た、生まれながらのヒーロー。最初から自己犠牲の精神を持っており、その精神性は多くの人から認められている。自由が損なわれるべきではないと考えている。

何から何まで正反対。その象徴が『シビル・ウォー/キャプテン・アメリカ』ですね。しかしながら、シリーズを通して彼らは互いに影響を与え合いました。トニースタークは娘の口の悪さを注意し、『キャプテン・アメリカ/ザ・ファースト・アベンジャー』の最後のような自己犠牲を見せた。キャプテンは汚い言葉を使い、ヒドラを騙して、最後にはヒーローをやめるという選択をした。

「Avenge」と「Revenge」の違い

『シビル・ウォー』のテーマである「Avenge」と「Revenge」の違いは『エンドゲーム』でも触れられていました。

彼らは「Avengers」なので先制することができません。やられた数だけ正当にやり返す。それが「Avenge」です。前半でソーがサノスの首を取りましたが、あれは「Revenge」であり、本人もそれを自覚しています。前半が正しい解決策ではなかったのは、「Avenge」と「Revenge」の違いがポイント。

「サノスは悪ではないのか?」と疑問に思った方もいますよね。

前作『インフィニティ・ウォー』ではサノスがヒーローのような描かれ方をしていました。エンドロール後の「サノスは帰ってくる」という文はこれまでヒーローに対して使用していたものです。

僕らからすればたまったものじゃないサノスの考えも、サノスにとっては正義であり使命だった。だからこそ、前作ではサノスは単純な悪とは表現されませんでした。

前作のサノスと今作のサノスの違い

それならば、今作のサノスは何故通常の敵として倒されたのでしょうか。

それは、サノス自らが石を集めていないからだと考えます。前作のサノスは自分の娘であるガモーラを涙ながらに殺した。自分の部下も失った。それでも、自分の正義を疑うことなく戦い抜き、最後には使命を果たしました。「失う覚悟」を持っていたのです。

それに対して今作のサノスは「失う覚悟」を試されていないのです。

前作でアベンジャーズがサノスに敗北した理由も同じ視点で考えられます。ソーを見捨てられず石を渡したロキ。ガモーラをすぐに撃てなかったクイル。ネビュラを見捨てられず石へ案内したガモーラ。ヴィジョンをすぐに殺せなかったワンダ。様々な所で「失う覚悟」を問われていたが、アベンジャーズにはその覚悟がありませんでした。

「失う覚悟」がなければ前には進めない。勝利はないのです。

「失う覚悟」で前に進む

それに対して今作のアベンジャーズは「失う覚悟」を持っていました。ホークアイを救うために自らの命を投げ打ったブラックウィドウ。グルートに覆いかぶさって助けようとしたロケット。人口の半分を復活させるために左腕を犠牲にしたハルク。自らの命を懸けて世界を救ったアイアンマン。

そして彼らはサノスに勝った。興味深いのはサノスと違ってアベンジャーズは「自らを失う覚悟」を持っているということです。誰かを犠牲にするのではなく、自分を犠牲にする。ヒーローの条件である自己犠牲ですね。前作のサノスは悪ではありませんが、決してヒーローではないということがここから分かります。

そしてこの「失う覚悟」とは、MCUを見てきた僕たちにとってのメッセージでもあります。22作品にわたる歴史の中で、トニー・スタークとキャプテン・アメリカの存在は凄く大きなものになりました。MCUにとっても、僕らにとっても。作中でソーが言ったように、「永遠はない。これだけは不変」なのです。いつかは必ず大切な存在を「失う」ことになる。

それでも時間は進むし、僕らは前に進まなければならないのです。彼らを失ったMCUが今後どのような作品を作るのか想像もつきませんが、それはどんな形であれ「覚悟」を持って向き合わなければならないものなのです。

初めて見た時に、彼らの死・引退を受け入れることができず、ただ茫然としていました。しかし、「失う覚悟」を持たなければいけない。受け入れなければいけないのです。

また、「失う覚悟」を持っていれば必ず大切な人と出会えるとも思います。前作のサノスと子どものガモーラ、今作のキャプテンとペギー、ソーとフリッガ、トニーとハワード。彼らの再会がそう勇気づけてくれるのです。

ヒーローは絶対ではない、「二面性・多面性」

そして今作でもう1つ大切なテーマがあります。それは、ヒーローは絶対的な存在ではなく、僕らと同じように「二面性・多面性」を持っているということです。多様性の許容が叫ばれる昨今、MCUなりの主張だと僕は思います。

  • キャプテン・アメリカ:ヒーローとしての自分・ヒーローをやめた自分
  • トニー・スターク:ヒーローとしての自分・家族を持つ自分
  • ソー:ヒーロー、王としての自分・ありたい姿の自分
  • ハルク:バナー・ハルク
  • ブラックウィドウ:髪の色が赤毛・白
  • ホークアイ:ホークアイとしての自分・ローニンとしての自分(・ブラックウィドウの遺品を使う自分)

アベンジャーズ初期メンバーは今作で分かりやすく「二面性・多面性」を持っていました。5年後の変化が特に顕著ですね。

大切なのは「二面性・多面性を持ちながらもヒーローであることに変わりはない」ということです。多様性の許容が叫ばれる昨今ですが、多様性とはその人にとって最も大切な軸がある上で成り立つものであり、安易な許容ではないと主張しているように感じました。


いかがだったでしょうか。今後のMCUはどうなるのか分かりませんが、僕は楽しみで仕方ありません。彼らは僕にとってもMCUにとっても大きな存在ですが、それは残された人も同じ。残されたメンバーが失って、手に入れて、その繰り返しの中で人は生きていくのだとこの映画から教わりました。

Follow me